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2009年2月7日(土) シュラーヴァスティ ( サヘート (祇園精舎)) [アジア]

A.M.5:30  目覚めると・・・・・    
「 ダメだ~~ぁ  結構~辛い・・・・・ 」  風邪の症状がひどくなっている・・・・・[もうやだ~(悲しい顔)] 
でも頑張らねば…と、身支度を整えた後、食事というより栄養補給の行(?)をする。
自分では、いつもと変わらない行動をとっているつもりだが、やはり同室のMRさんにはバレテいて、
「なっちゃん、今日、ヘン!」と言われた。(^_^;)
でも、MRさんは日増しに元気になってきたので、よかった!よかった!(#^.^#)

A.M.8:00 Hotelを出発して、10分ほどで サヘート(祇園精舎)に到着。

「シュラーヴァスティ」という地名は、お釈迦様の時代(紀元前5世紀頃)のコーサラ国の首都名である。
コーサラ国は十六大国の中でも最も有力な国のひとつで、シャーキヤ族(お釈迦様の故郷)もコーサラ国の勢力下にあった。
コーサラ国の首都・シュラーヴァスティ(現在のバルランプール)の郊外に、19世紀後半、イギリス人考古学者のカニンガムによって、「サヘート遺跡」と「マヘート遺跡」という二つの遺跡が発掘された。
その「サヘート遺跡」が、漢訳仏典で言うところの「祇園精舎」に当たるとされている。
お釈迦様が説法をされた場所として経典の中に、「祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)」と記されているものが多いが、この「祇樹給孤独園」の略称が「祇園」であり、つまり、ここ「祇園精舎(サヘート遺跡)」なのである。
この祇園精舎では、お釈迦様の伝道生活45年の内、24回もの雨安居を過ごされたと伝えられる。

祇園精舎(ジェータヴァナ・ヴィハーラ)は、『仏説阿弥陀経』が説かれた場所で、王舎城(ラージャグリハ)の竹林精舎(ヴェヌヴァナ・ヴィハーラー)と並んで二大精舎といわれ、舎衛城(シュラーヴァスティ)の南西方向の郊外に、南北350m・東西250mの大規模な精舎であったと伝えられる。

2586270「祇園精舎」となったこの土地は、もともとコーサラ国の国王プラセーナジット(パセーナディ・波斯匿王)の太子、ジェータ(祇陀)が所有する園林であった。
そして、ここシュラーヴァスティの町に、スダッタ(須達多)という、身寄りのない孤独な人を憐れんで、自らの財産を恵まれない人々に惜しげもなく投じていたことで、人々から「給孤独(アナータピンディカ)長者」と呼ばれていた富豪が住んでいた。

ある時、スダッタ長者は商用で訪れた王舎城(ラージャグリハ)でお釈迦様の教えに触れて感動し、以来仏教に帰依し、是非ともシュラーヴァスティにお迎えしたいと願った。
そこでスダッタ長者は、シュラーヴァスティに、お釈迦様とお弟子方が居住する場所を探しはじめて、ジェータ(祇陀)太子が所有するこの土地を購入しようとした。
しかしジェータ太子は、スダッタ長者の依頼に対して、「必要な土地の表面を金貨で敷き詰めたら譲ってやろう」と戯れを返してあしらった。
しかしスダッタ長者が本当に金貨を敷き詰めた為、ジェータ太子は驚いてそのまま土地を譲渡し、更に自らも樹木を寄付して寺院建設を援助したという。

『平家物語』の冒頭句、 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」 は、ここのことであるが、近年の発掘調査でも祇園精舎から大きな鐘は見つかっていない。

『阿弥陀経』の冒頭には、 「 如是我聞 一時佛在 舎衛国 祇樹給孤独園 與大比丘衆 千二百五十人倶 」 (「かくの如く我聞きたてまつりき。 一時、仏、舎衛国祇樹の給孤独園にましまして、大比丘の衆 千二百五十人とともなりき。」 とある。
この、「祇樹給孤独園」が、ジェータ(祇陀)太子とアナータピンディカ(給孤独)長者の寄進によってできた精舎であるということで、「ジェータの樹園(祇樹)」とア「ナータピンディカの園(給孤独園)」の、2人の名を冠して「祇樹給孤独園」と呼び、これを略して「祇園」というのだそうだ。

サヘート遺跡(祇園精舎)は、比較的早く見つかった遺跡、つまり発掘されてから年数がたっているので、きれいに整備された遺跡公園だがイヤミのない落ち着きがあった。
南門から入場してすぐの左手には大きな菩提樹があり、その後ろには僧院跡の遺跡がある。
そして右手前方には、周囲をフェンスで覆われた大きな菩提樹があり、それは‘アーナンダの菩提樹’と称され、チベット仏教徒らが参拝をしていた。

2586271祇園精舎(サヘート)のほぼ中央には他より一段高くなった遺跡があり、これがお釈迦様のガンダ・クティ(香室)跡なのだそうだ。
私たちより先に、その香堂跡で『阿弥陀経』のお勤めをしていた日本人Groupは、関空から同じ日に渡印したGroupで、Routeこそ違うがチョクチョクお見掛けする方々だった。
そのGroupの後ろでお勤めの順番待ちをしながら、私はその方々のお説法を聞かせてもらっていたのだが、ある女性が、「これからも、自分の信心を大切にしていきたいと思います」と発言された。
「自分の信心ね~ぇ ・・・・・  
いつ崩れちゃうかわからないし、後生までは持っていけない信心を、真実信心だと思っているなんて、あわれだな~」  なんて思いながら聞かせてもらった。

このGroupの後、私たちも『阿弥陀経』のお勤めをさせていただき、S先生のお言葉をいただいた。
ここでも涙を流されている方がおられたが、私の心は、自分の体調の心配ばかりで、それ以外に味わうことなどできなかった。
ただ、日本では見ることの出来ない色鮮やかな野鳥を見ながら、「あぁ、お釈迦様はこの風景の中で御浄土の世界を言葉にされたんだな~」と思いながら、青い空を見上げた。

その香室跡の隣り(北側)には、『阿弥陀経』の御法を説かれた法堂跡があり、その東には講堂跡が遺っていた。
その他にも、十大弟子のサーリプッタ(舎利弗)、マハーモッガラーナ(摩訶目犍連)、マハーカッサパ(摩訶迦葉)、そして子息のラーフラ(羅睺羅)の庵跡なども遺っているようだ。
写真を撮りに行きたいと思ったが、熱を帯びた体が動くことを拒否した・・・・・

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