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2009年2月5日(木) サールナート(鹿野苑)の遺跡群 [アジア]

考古博物館から移動し、いよいよお釈迦様が最初に御説法をされたという初転法輪跡地・鹿野苑へと向かった。
鹿野苑は、別名・ムリガダーヴァ(鹿の森林)とも呼ばれ、またお釈迦様在世の頃にはリシパタナ(仙人の集まる所)とも呼ばれ、紀元前3世紀のマウリヤ王朝から、シェンガ朝、クシャーナ朝、グプタ朝、パーラー朝を経て12世紀に至るまでの1,500年間、インドの宗教的拠点として数多くの求道者たちが集い栄えた場所であるといわれている。
ここも要入場料の為、疎ましい物売りはついて来ないのでゆっくりと見学することが出来る。

2576265周囲を鉄のフェンスで囲まれた鹿野苑(ろくやおん)のGateをくぐり、整備された通路を進んで行くと、右手遠くにダーメーク・ストゥーパが徐々にその姿をあらわしてゆく。
その歩道を30mほど行った右手にダルマラージカ・ストゥーパがあり、ここがお釈迦様が五比丘に対して始めて法(真理)を説かれた場所(初転法輪跡)だとされている。

マウリア朝時代(紀元前3世紀)に、アショーカ王によって建てられたと伝えられるダルマラージカ・ストゥーパ(法王塔)は、直径14m・高さ30mを超える巨大な塔であったと伝えられるが、残念ながら1794年にヴァーラーナスィのディワーン藩王によって破壊され、現在はそのストゥーパの基壇を残すのみになっている。
7世紀頃この地を訪れた玄奘三蔵(唐の僧・三蔵法師)は、「基壇は傾いているものの、今なお30mを越える高さで、その手前には21mほどの石柱が立っている」と記している。
その21mほどの石柱というのが、ダルマラージカ・ストゥーパの北東横にあるアショーカ王柱である。

マウリヤ王朝第三代のアショーカ王(紀元前268~前232頃)は、暴君として名の知れた王で、強大な勢力をもって他国を征服していったが、即位9年目のカリンガ王国征服では、あまりの無残さに武力による征服を深く後悔し、この時より政策転換をして、以後は自らが仏法に帰依し、法(仏教)の精神に基づいて国家を統治しようとした。
アショーカ王は、お釈迦様の仏舎利を8本の塔のうち7本から取り出して新たに建てた84,000の塔に分納したと伝えられ、また全国各地の磨崖や大小の石柱に仏法を彫って国内各所に立てたとされる。(現在確認されているアショーカ王石柱は十本ほどである。)

2576264鹿野苑内に、かつて15mほどの石柱の上部に四頭の獅子(ライオン)の柱頭がのっていたというアショーカ王柱も、現在は基部約2m(直径70cm)だけが残され、それは鉄格子とフェンスで二重に囲われていた。
これもイスラム教徒による破壊の爪跡で、この石柱の上部が先ほど見学した サールナート州立考古博物館に展示されてあった 法輪と四頭の獅子柱頭であり、インド共和国の国章となったモデル彫像である。
この石柱にはブラーフミー文字が刻まれているが、これは僧伽(仏教に帰依する集団)の分裂を戒める法勅が書かれているのだそうだ。

アショーカ王柱を背にして残るレンガの積まれた遺跡が、ムーラガンダ・クティー(初転法輪寺)と呼ばれる巨大な精舎跡である。
現在は建物の礎石部分と、左右一対の石柱が残る祠堂跡と階段が遺るのみである。
玄奘三蔵によると、精舎はレンガで造られ、一辺が19m・高さは61mもあり、四方には黄金の仏像が彫ってある、祠堂には等身大のお釈迦様の石像があったなどと記している。

2576266奉献塔と呼ばれる小さなストゥーパたちの間を通って向かった先は、鹿野苑でひと際目を惹く、東に大きく聳え建ったダーメーク・ストゥーパである。
ここは、お釈迦様が五比丘に説法(初転法輪)をした後、二度目の説法をされた跡を記念として建てられたと伝えられている。

ダーメークという名は、ダルメークシャー(法を観ずる所)という言葉に由来し、ダーメーク・ストゥーパは法眼塔とも称されるそうだ。
アショーカ王の時代(紀元前3世紀)に創建され、グプタ朝末期(6世紀)に現在の形に造営されたというこの塔は、二つの円筒を積み重ねた形状で、基壇は直径約28m、全高43.6mのインド最大のストゥーパである。
ストゥーパの基部(12m辺り)には蓮の花などのレリーフが刻まれ、石で覆われた仏像を祀る厨子が八方向に造られている(仏像は残存せず)。
またS先生の本によると、ストゥーパ頂上部には、「諸法は因より生ず」と書かれた石盤があるのだそうだ。

私たちはその巨大なダーメーク・ストゥーパの下で円陣を組み、「釈尊の一代記」を輪読した。
お釈迦様が説法をなされたこの場所で、S先生が言葉を詰まらせた…。
湧き上がる思いをこらえきれないS先生の姿を見て、S先生と五比丘の心が重なったように見えた。
そして、何も湧き上がる心の無い自分の醜さを必死で打ち消そうとする私がそこにいた。

2576267お勤めならぬ輪読を終えた私たちは再び歩き出し出口へと向かった。
途中右手に、分厚いコンクリートの屋根で覆われ有刺鉄線の張り巡らされた パンチャタン寺院(五塔寺)跡(一辺5m・高さ1mほどしか残っていない)を横目で見ながら、私は一人、Memberとは少し離れて歩いた。
なんだかチョット落ち込んだ自分を、誰にも気付かれたくなかったから・・・・・

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