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2009年2月4日(水) ブッダガヤ ( 苦行林 ・ スジャータ寺院 ) [アジア]

2566126ネーランジャヤー(尼蓮禅)河の東岸、セーナ村(スジャータ村)の南にあるウルヴィルヴァーの林で、お釈迦様は6年間の難行・苦行に打ち込まれたと伝えられる。
Guideのジャマールさんの話しでは、「お釈迦様が実際にどの辺りで苦行をされていたのかは定かでない」ということだが、当時、バラモンや仙人などがこの河の畔に住みつき解脱を求めて修行生活を送っていたといわれていることから、経典などの記述より、ここウルヴィルヴァーの苦行林でもお釈迦様はご修行されていたであろうということで、今回の見学コースのRouteになった。

乾季の川とも砂漠とも区別のつかぬ砂地の道の先にその苦行林はあった。
林というにはあまりにも木が少なすぎるな~と思ったが、『聖求経』には、かつてこの一帯は、鬱蒼とした樹林に覆われ、ネーランジャヤー(尼蓮禅)河の畔には草花が咲き乱れていたと記されている。
苦行の原語はTapas(タパス)といって、「熱」を意味する言葉で、断食に代表される肉体苦によって神秘的な熱力が獲得され、霊力を発揮し目的を達せられると考えられていた。

『獅子吼大経(マハーシーハナーダ・スッタ)』に、お釈迦様ご自身が、最高苦行者・最高貧卑者・最高嫌悪者・最高独住者と宣言された、その難行・苦行の様相が説かれている。
○最高苦行者として、裸行・脱糞行・なめるだけ少量の食事・招請を受けない・居留を受けない・招待を受けない・持ち来たものを受けない・指定されたものは受けない・壷や鍋の口から受け取らない・敷居の内や杖の間にあるものは受け取らない・妊婦、授乳中女性の女より受け取らない・飢餓の際の施し物は受けない・犬、蝿が群がる所では受けない・魚、肉を食べない・穀酒、果樹酒、粥汁を飲まない・一軒の家から一口だけ、二軒の家から二口だけ、七軒の家から七口だけ貰って食べる・一施与によって暮し、二施与によって暮し……七施与によって暮す・一日に一食、2日に一食……七日に一食を摂り、半月に一食とるに至るまで、捧げられた食物を受けて食べることを実践す・野菜、ひえ、玄米、ハタ草(こけ)、飯汁、胡麻粉、草、牛糞、森の樹木の根や果実、自然に朽ちた果物を食べる・麻衣、麻の混織の衣、屍衣、糞掃衣、ティリータ樹皮衣、皮衣、草衣、樹皮衣、木片衣、髪毛布の衣、ふくろうの羽毛の衣を着る・髪と髭を引き抜く・常立行をなす・常にとげのある床に臥す・坐具を拒絶す・一日に3回の沐浴をなす。
○最高貧卑者として、体に塵垢が蓄積し皮苔が生じても動ぜず、
○最高嫌悪者として、進むも退くも土の上は注意深く進み、一滴の水にさえも憐慰の心を起こして、不平等なる境遇にある小さな命を殺害せぬよう、
○最高独住者として、人里はなれた森林に住み、牧牛者、採草者、採薪者などに見つからぬよう逃げる。
これほどの難行・苦行は、過去にも例が無く、未来においても無いであろうと説かれたほど苛烈極まりないご修行をされたそうで、その6年間の難行・苦行で痩せ衰えたお釈迦様のお姿は、パキスタンのパンジャブ州で発見された「釈尊苦行像」(AC2~3世紀作の国宝)より忍ぶことができる。

ここ苦行林跡には現在ヒンズー教の寺院があり、私たちが行った時には、なぜかその入り口にたくさんの子供たちが整列していて、大根役者のような物乞いの女性とそれを叱咤する男性がいた。
それらを無視して境内に入って行くと、奥の寺院からはテープによる教のようなものが聞こえ、中央の建物には、コンクリートで作られた直径1.5m・深さ3mほどの井戸があって、ここでお釈迦様が水行をされたというのだが、何だか怪しい感じだった。
今は水は無く、底にはわずかばかりのお賽銭が投げ入れられていた。
怪しいと言えば、この寺院には現地人のおじさんたちが無意味にタムロしていて、Guideのジャマールさんを取り囲みChipの請求をしていた。(~_~)

2566145次に向かったのは、ここから目と鼻の先にある、乳粥の供養地・スジャータ寺院である。
同じくネーランジャヤー(尼蓮禅)河の東岸に位置し、お釈迦様はセーナ村の地主の娘・スジャータより乳粥供養を受けられて体力を回復され、前正覚山に向かったと伝えられる。
手製の木橋(5m位)を渡って、乳粥を受けたとされる場所に建つ白い乳粥林寺院には、乳粥を捧げるスジャータとそれを受けるお釈迦様の姿を再現した像が二箇所に設置されてあった。
しかし・・・・・・ 最初に見た像のお釈迦様は、コンクリートで出来たふくよかな顔立ちとお体に、全身カラフルな着色が施され、チョットいただけない笑みを浮かべておられて、とても苦行の末に乳粥を受けているようには見えなかった。(あれは無いほうのがいいと思う。(^_^;))
その裏には小さなストゥーパが祀られ、更にその裏にはもう一つのお釈迦様とスジャータの像があり、こちらのお釈迦様は苦行の末に痩せ衰えた身体を金色に塗られてはあるものの、まぁ~見れた。
その像の前で、KY夫妻がお釈迦様とスジャータの寸劇を披露してくれて、これがとても面白かった。

何の不自由の無い城内で、王子として29歳まで生きてこられたお釈迦様が、それまでの生活とは一転され、この世の苦しみの限界までご自身を追い詰められた生活をされた末に、これもまた捨てられたと言うことは、お釈迦様は二度もご自身を完全否定なされたと言うことになる。
私には自分を捨てるなんてことは到底出来ない。
お釈迦様がご自身を信じて臨まれた6年間もの難行・苦行を捨てられた、その時の心の葛藤はいかほどであったのだろうか・・・・・
スジャータより乳粥を受け取る時のお気持ちは、どのようなものであったのだろうか・・・・・
私たちは、お釈迦様が生きてこられたその足跡を、いとも簡単に口に出しては感動しているふりをするが、私には、生・老・病・死の四苦で苦しまれたお釈迦様のお気持ちもわからなければ、苦行に苦しまれたお釈迦様のお気持ちもわからない。
ましてや、なぜここまでして解脱を求めることが出来たのかなんて、さらさら想像もつかない。
しかし、お釈迦様はこの地でお生まれになり、この地で正覚を悟られ、この地で法を説かれたというこの事実は、国を越えて、時を越えて、今、この私に届けられているのだと思うと、あまりに簡単にお釈迦様云々と言っていること事態に罪の意識が芽生えてくる。

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