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2009年2月4日(水) ブッダガヤ ( 前正覚山 ・ セーナ(スジャータ)村 ) [アジア]

A.M.5:00 起床  早く目覚めすぎて、7:30出発までの時間を持て余してしまった。
今日の最初の目的地は、前正覚(プラーグ・ボディ)山ということだが、大型バスでは通れない道を行くので、5台のジープに分乗して向かうことになった。
私が乗ったジープには、S先生とMK先生とIGさん、それにTourConductorの拓郎さんが乗り込んだ。
ジープの乗り心地は激しい振動を伴うものの、バスよりも視線がグ~ンと下がるので、窓から見える景色も違って見え、私は思いのほか楽しめたが、MRさんは腰痛が悪化し、この日の昼以降、食事も摂れないような状態になってしまった。

前正覚(プラーグ・ボディ)山はブッダガヤの北東部にそびえる標高150mほどの岩山で、南北に細長く5kmほど連なっている。
Hotelを出発したジープは、朝もやの中、閑散とした村の中を突き抜けるまっすぐに伸びた一本道を進み、砂丘のようなネーランジャヤー(尼蓮禅)河を渡ると未舗装の村へと入っていった。
前方を行くジープが巻き上げた砂埃が、朝日のスクリーンとなって視界を遮り、好条件とは言えない中で写真を撮り続けるも、私にとっては楽しい時間となった。
15分ほど走った所で再びアスファルトの敷かれた道を進むも、所々で道路が陥没しているのでConditionとしては決して良いとはいえない。
途中、Gasstationに寄って給油をしている間に、男性陣が車の前方で青空トイレをはじめたので、視線のやり場に困って後ろを向いたら、そちらの壁でも現地の男性が何やらその~・・・・・(;^^ゞ
給油を済ませて再び走り始めると、荒涼とした平原の右手前方に、白くかすんだ前正覚山がうっすらとその姿をあらわした。
メイン道路から右折した道路は、両脇にパームツリーが立ち並ぶ赤土の細い道で、その先にある村は、土壁に藁葺きの屋根を乗せただけの簡素な作りでありながら、とても美しい風景を作り出していた。
その村を抜け、道無き道を進むと、大平原の中で不自然に隆起した岩山のたもとへとたどり着く。
前正覚(プラーグ・ボディ)山である。

2566031車で40mほど登ったところにある駐車場でジープを降り、そこからは徒歩で急勾配な坂道を40mほど登ると、山の中腹にあるコンクリートを白く塗っただけのチベットのラマ教寺院にたどり着く。
更に階段を上がると、その境内にお釈迦様がこもられたと伝えられる留影窟(ドン・ゲシュワリー)とよばれる苦行窟がある。
その入り口は長方形にコンクリートで固められて、淵にはペタペタと金箔をはられた無粋なものであったが、中に入るともっとエゲツなく、狭く、真っ暗闇の中に、蝋燭の炎で黄金色に浮かび上がった、苦行で骨皮になられたお釈迦様の像の前で、「お賽銭、お賽銭」とひたすらに声をかけ続けられる。
お釈迦様が、ここで、どのようなお気持ちで苦行をなされていたのかなんて、思いにふける雰囲気ではない。

お釈迦様は、出家をされてからの6年間、難行・苦行をなれさたが、この身を痛めても悟りは得られぬ、このままでは命さえも尽きてしまうと、苦行・断食を捨てられて、ネーランジャヤー(尼蓮禅)河で身を清め、スジャータより乳粥の供養を受けた後に、悟りの場所を求めて瞑想のために向かわれたのがこの前正覚山だといわれている。
しかし、瞑想に入られたお釈迦様に、地神や留影窟の龍が、「ここは悟りを開く場所ではない。 ナイランジャヤー河畔に聳えるピッパラ樹の下へ行け」と諭したことで、お釈迦様は座を立たれて(現)ブッダガヤの菩提樹の下へと向かわれたのだと伝えられている。
これゆえに、正覚を成就される前に登られた山という意味で、「前正覚山(ぜんしょうがくさん)」と名付けられたのだという。
また、お釈迦様がこの留影窟を立ち去る時に、竜の願いを受けて、この洞窟内の壁に自らの影を残し留めたことから、お釈迦様の影が留まる窟という意味で、「留影窟(りゅうえいくつ)」と呼ばれるようになったのだという。

その留影窟の外で説法をしているチベット僧らの脇を通り抜けて、再び登ってきた道を下りて行くと、ラマ教寺院を出てすぐに、手を伸ばす物乞いたちの洗礼を受けることになる。
車に乗ってもなお、車窓を叩いて物乞いをする母子の姿に、Memberの一人が、耳をふさいで目をつむった。
お釈迦様がどうとか、仏跡がどうとか思う暇も、静かに心を落ち着けられるような場所もない。
ただ、ただ、物乞いをする者達を哀れむふりをしながら、ハエのように疎ましく思っている自分というものを、嫌というほど見せ付けられるのみである。
何となくイヤな思いを乗せたまま、ジープは次の目的地へと向かって走り出した。

行きに来た道とは違うRouteでジープは未舗装の悪路を村から村へと通り抜ける。
もう何百年も時間の止まったようなその村々の風景は、イヤ~な気持ちを忘れさせてくれるほどワクワクした。
TourConductorの拓郎さんも初めて通る道を、興味深そうに見ていた。

2566021たどり着いたのは通称スジャータ村である。
正式にはセーナ村と言うらしい。
ネーランジャヤー(尼蓮禅)河の東岸にあるセーナ村の地主・セーナーパティの娘であるスジャータが苦行に身を窶したお釈迦様に乳粥を捧げことで有名になった村なので、この集落をスジャータ村と言うようになったそうだ。
その村はずれにあるスジャータの住居跡といわれる場所からストゥーパの跡が発掘され、五世紀頃・グプタ朝時代に建設されたといわれるその巨大なストゥーパ(高さ18m・直径35m)は、その頃とほぼ変わらない田園風景の中に再生された。

2566028セーナ村(スジャータ村)では米(麦?)の脱穀作業が間近で見られ、現在も変わらずにすべて手作業で行うその姿に、お釈迦様の時代のインドを見たような気がした。

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