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2009年 報恩講 [仏法]

先週初めに、報恩講のお勤めと御法話が二日間にわたって催された。
ずいぶん日数が過ぎてしまったが、今日から少しずつまとめてみようと思う。

“報恩講”とは、親鸞聖人(浄土真宗の祖)の祥月命日で、大谷派なら11月に、本願寺派なら1月にとり行われる、報恩謝徳の法要のことである。
覚如上人(本願寺三世)が、親鸞様の三十三回忌に‘報恩講私記式’をなされたことが起源であるとされている。
報恩講で何よりも大切なのは、荘厳でも勤行でもなく、親鸞様が命をかけて説き開かれたお念仏のおいわれを聞かせて頂いて、このわが身に真実信心を頂くことこそが親鸞様の御恩に報いる唯一の道であると聞かせていただいた。

 [かわいい] 『御文(章)』 五帖目第十一通 「御正忌章」 (P1197~)[かわいい] 
そもそも、この御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御まへにまいらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。
もってのほかの大事なり。
そのゆえは、信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。
されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。
人間は不定のさかひなり。
極楽は常住の国なり。
されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり。
されば当流には信心のかたをもって先とせられたるそのゆえをよくしらずは、いたづらごとなり。
いそぎて安心決定して、浄土の往生をねがふべきなり。
それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。
それはおほきにおぼつかなき次第なり。
他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。
南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもって、信心決定すとはいふなり。
そもそも信心の体というは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「<南無>といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。
<阿弥陀仏>といふはすなはちこれその行」(玄義分)といへり。
「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。
されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。
これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。

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