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ニュースの聞き方 [心]

毎週水曜日は陶房に出かけ、陶作作業をする。
今日は、アメリカで世話になった友人に送る、犬の置物を作ってみた。
初めてのトライにしては、なかなかの出来栄えに、自己満足[手(チョキ)]

陶房にはBGMでAMラジオが流れている。
陶作に集中していることもあってラジオ番組に耳を傾けることは少なく、誰もが何気なしに聞き流しているのだが、いつもニュース番組が始まると、そのニュースに対しての意見が誰からともなく述べられて会話が始まる。
これはメンバーの顔ぶれが変わっても同じで、新鮮なニュースに反応するのは人間の習性のようなものなのか…、チョットおもしろいと思った。

今日の話題となったニュースは、
「‘派遣切り’などで住まいを失った失業者らに用意された一時的な宿泊施設が満員となった為、市は、入居出来なかった人たちを門前払いした」 ということを伝えた。
このニュースに対して、陶房ではこんな言葉が飛び交った。
「市も、もうチョット人間らしい温かい対応をしてあげればいいのにね~」
「そもそも、派遣社員に甘んじていた本人の責任なんじゃないの~」
「だけど、ホームレスが増えると治安が悪くなるから、襲われやしないかと心配…」
私は、何も言わなかった。
というより、何も言えなかった…。
私がこの時に思ったことを口に出したなら、陶房の仲間からは白い目で見られること、間違いなしであっただろう・・・・・

例えば、「市も、もうチョット人間らしい温かい対応をしてあげればいいのにね~」
と言った人には、
「それじゃ~あなたが、その“温かい人間らしさ”というやつで、お宅に何人か泊めてさしあげたらよろしいんじゃないの?!」
と言いたかった。
自分だって出来ないことなのに、それを棚に上げておいて、他人も同じように出来ないといって冷たくあしらったからとて、これを攻める資格などないはず。
それに、“人間らしい温かさ”っていったい何なんだ???
私ら人間には、温かな心なんて持ち合わせて無いぞ~!
職の無い経歴不詳の他人を、何の条件もなく無償で養ってあげることの出来る人など、この世のどこにいるというのか…
‘市’といっても、所詮は人間の集合体である。
自分を犠牲にしてまで、他人を思いやるほどの慈悲の心など持ち合わせてはいまい。
たとえ生活に余裕があって、慈善事業が趣味という人であっても、慈悲や厚意を与えたその人から、感謝のかけらも示されずに一生世話をしてくれと言われたら、「ハイ、喜んで!」とは言えないだろう。
一時的な慈善は、結局自己満足を得る為の産物であって、これを偽善と呼ぶのだ。
確かに、その偽善によって救われる人がたくさんいることも事実で、偽善は決して悪いことではない。
ただ、ここで言いたかったのは、自分の立場に置き換えてこのニュースを聞いた場合、一方的に市を悪者と決め付けるような言葉は出てこないのでないかなぁ~と思った。

例えば、「そもそも、派遣社員に甘んじていた本人の責任なんじゃないの~」
と言った人には、
「もし、自分も派遣社員にならざるを得ない運命におかれていたら?
それでも、私が悪うございましたと雪の降る野外で毎夜過ごせる?」
と聞きたかった。
確かに平日の昼間っから、一日中陶房で趣味の陶芸に時間を使える人は、それなりの生活基盤のある運命に恵まれて今を生きている人たちだろう。
だからといって、自分の生活レベル以下の運命の中を生きている人たちを、見下していい権利など無いし、ましてや、いかにも自分の意見が正しいように発言をするお前は何様のつもりじゃ!と言いたかった。
“私”というヤツは、常に自分の考えを標準機軸として物事を見てしまう。
たまたま運よく正社員の立場にいる、また働かなくてもよい運に恵まれている人は、そんな自分の運の良さを当たり前の如く手にして、まるで「私の運がいいのは、私のお陰よ」と言わんばかりである。
そして、現在の自分の立場、もしくは自分の考えを中心にして、自分の考える“負け組”の人たちを、知らず知らずの内に見下しているから「負け組に甘んじている本人の責任でしょ!」なんて言葉が出てくるんだと思う。

例えば、「ホームレスが増えると治安が悪くなるから、襲われやしないかと心配…」
と言った人には、
「襲われる心配はするくせに、襲う心配はしないの?」
と言いたかった。
確かに、深夜の京都駅を歩くとホームレスの数は激増していた。
それに、今までよく見かけた‘浮浪者’と言われるような身なりの人たちではなく、明らかに生活意欲のある身なりの面々が、寒夜をしのぐ為に深夜の京都駅を占領していた。
私自身、そんな人たちの横を通り過ぎる時には、「この人たちの所持金はいくら位なんだろう…、食事はしているのかなぁ…」と心配しつつも、その心配は決してホームレスの人たちに対する同情や哀れみなどではなく、「もしも、この人たちが空腹に耐えられずに襲い掛かってきたらどうしよう」という、自己防衛の心配である。
私だって人にとやかく意見の出来る人間ではないが、陶房で、ホームレスに襲われる心配をしていた友人にはこう言いたかった。
人間は、縁がもよおせば、難なく悪を正当化してしまう魔物であるということを・・・
今現在の私は、家もあり、仕事もあり、生活がしていけれるだけの収入もある。
でも、もし明日にでも会社がつぶれたら…、家が火事で焼け焦げたら…、天災で…、病気に…、家族が…、と、理由は何であれ、家や仕事やお金に困窮する立場になったならば、この自分が生きていく為に、盗みをしたり、人を襲ったりする立場に十分成り得るヤカラなのだ。
だから、みな「襲われる心配」ばかりしているが、「襲う心配」をしなくても大丈夫なのか?と思った。

ニュースの聞き方は、立場を変えることでまったく見方が変わってくる。
でも、人間の本質というのはまったく変わらないと思う。
日常のニュースを聞いて、また、そのニュースを聞いた人たちの言葉によって、私は日々いろいろなことを教えていただいているのだな~と感じる今日この頃である。
しかし、
何やかんやと他人に意見を述べているこの私こそ、自分の考えは正しと言わんばかりに偉ぶって、他人を見下している一番の悪者じゃ~ないか・・・・・!!![パンチ]
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