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2009年 修正会 (つづき) [仏法]

御讃題は『執持鈔』の、〔平生の時、善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、その時をもって娑婆の終わり臨終と思うべし〕である。
覚如上人は、親鸞聖人の御教えは “平生業成の教え”であると要約して下さった。
往生が定まるのは、臨終間際でも、死んでからでもない、平生の今である。
聖道門・浄土門を問わず、お釈迦様をはじめとしてどの仏様方も平生の時に悟りを開かれたのであり、肉体を失ってから往生浄土の約束をされた仏様は一人としておられない。
生きているからこそ善知識とのご縁を頂けるのであり、お釈迦様より受け継がれた言葉によって、阿弥陀様のご苦労と、唯除された五逆・誹謗正法の私をお聞かせに預かれるのである。
これを聞く一つで阿弥陀様のお救いに預かったその時こそ、この世の臨終であり、これこそが人間として生まれさせて頂いた、今ここで果さなければならない大仕事であるとお示し下さっている。

一休禅師は元旦に、杖の先に髑髏をくっつけたものを振りかざしながら街中を、「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と大声で歌って歩かれたそうな。
生まれた時を旅立ちとするならば、一里ごと(一年ごと)に塚(新年)を通り過ぎて、旅の終わり(わが身の死)へと近づいていくことを、めでたがっている人もあれば、そうでない人もあると歌われたものである。
一休禅師の真意はわからないが、「明けましておめでとう」と言われても、「何がおめでたいの?」と問われると答えに詰まってしまう。
大半の人は、年をとることを好んではいないだろう。
現に誕生日など、高齢になるほど「あめでとう」といわれることに抵抗を感じてしまう。
ましてや、日々、一時一時と寿命は縮まってゆくのだ。
時には死にたくなることもあったけれど、本気で、自分の為に死のうとは思えなかった。
つまり私の腹底は死にたくないのだ。
一休禅師が言われたように、冥土の旅の一里塚は、誠にもってめでたくない。
では、めでたいと思えるのはどんな人だろう?
自殺志願者? ・・・イヤ、違う。
そもそも自殺を考えている時というのは、幸せに生きたいからこそ不幸である現実を呪って自己逃避に夢を馳せているに過ぎない。
本心は生きていたいのだ。 不幸でありたくないのだ。
思うに、冥土の旅の一里塚を心の底からめでたいと思っている人などいないのではないか。
日本人的考えのもと何の意識も無く、ただ慣わし・風習にのっかているだけ、人と足並みをそろえていた方が楽とばかり「めでたい、めでたい」と連呼しているが、少しはちゃんと考えたいものだ。

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