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2009年 修正会 “宿善”と“善知識” [仏法]

今日は、久しぶりに独身時代さながらのお正月を過ごすことができた。
初参詣となった修正会(しゅしょうえ)の御法座。
こうして元旦早々から仏法を聴聞させて頂けるとは、仏様のお導きに唯々感謝である。
昨夜の義父や夫との諍いを縁にして、今日、こうして御法に出会わせていただけたこと、本当に阿弥陀様のお手回しでありました。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ・・・・・

御讃題は『執持鈔』より、〔平生の時、善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、その時をもって娑婆の終わり臨終と思うべし〕であった。

まず、蓮如上人の御文 『五重の義』 〔一つには宿善、 二つには善知識、 三つには光明、 四つには信心、 五つには名号。 この五重の義、成就せずは往生はかなうべからず〕よりお話にはいられた。
一つ目の“宿善”については学派において、自力による宿善開発か、他力による宿善の開発かが論じられているが、蓮如上人は御文にもハッキリとお示し下さっている。
平生に弥陀如来の本願の、われらを助けたまうことわりを聞き開くことは、宿善の開発によるが故なりと心得て後は、 わが力にてはなかりけり
自力でこしらえた宿善なんぞ、何一つとして救いの足しにはならないと。
聞書には、〔宿善めでたしというはわろし。 御一流には宿善有り難しと申すがよくそうろう〕と仰っている。
「宿善めでたし」と、いかにも自力で得たかのようにめでたいというのは間違っている。
浄土真宗の宿善開発というのは、ただただ阿弥陀様より差し向けられた宿善を、有り難しと頂戴する他力廻向であるぞと教えて下さっている。

そもそも私は、無始曠劫より悪業を造り続けて迷いに迷ってきた極悪人である。
この悪凡夫が「そうは思えない」と否定したところで、仏様の目からご覧なった私というヤツは、「身・口・意で悪を造り続け、善のカケラも出来ないが故に流転輪廻を繰り返しているのだ」とお釈迦様は教えて下さっている。
私は昨夜、義父は自分中心主義者で、自己愛が激しく、自分は常に正しいと思って反省もしない自惚れ屋であり、強欲者であるが故に、心の中は常に他人をののしり、口には愚痴しか出てこず、その思いのままに行動していると非難した。
でも、私も根は同じではないか?
人はみな、意識するしないにかかわらず、誰よりも何よりも自分が一番大好きで、一番大切で、自分の欲から逃れられないでいる悪凡夫ではないか!
それを外面に表す人(義父)と、内面に隠す人(私)との違いだけなのだ。

仏教は因果の道理を説く。
私が一つの命を奪ったならば、この私の命をもってその罪を償わねばならない。
しかし私は、この私が生きる為、この命一つを生かす為に、数限りない命を食い尽くすなどして、無数の命の犠牲の上にあぐらをかきながらも、罪の意識のカケラも無い、そんなヤツである。
そう聞かせてもらっている。
アレもコレもいつだって、まったくもって自分の罪は棚上げ状態だ!
義父のことを責められたもんじゃない!!
私の方こそ、自分は正しいと自惚れ、義父の見下していたではないか!!!
そう気付かせてもらっても、素直に謝ることもできないでいる・・・・・

そんなヤツが、どうして宿善など積めようか?!
何を寝ぼけて、自力の善が救いの足しになると言えるのか?!
お釈迦様も、親鸞様も、蓮如様も、みな口をそろえて「自力を捨てよ、弥陀頼め」と言われているのに、私は何様のつもりで法も願力も善知識も踏みにじるのか・・・・・

そんな私だからこそ仏願の生起がたったのだと師は説く。

二つ目の“善知識” について蓮如上人は、〔善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよと言える使なり〕とお示しになった。
では、善知識とは誰のことか?
「三世を貫き、阿弥陀様ただお一人が、この悪凡夫を救うとお誓い下さり、その為のお力を修得して下さったのだ」とお示し下さったのがお釈迦様であられる。
もしお釈迦様がこの世に興出されなかったら、私は私の後生も、そこから出離する法も知らずに、迷い苦しみ続けたであろう。
阿弥陀様のお手回しの下に、お釈迦様を始めとする善知識方があったなればこそである。
南無阿弥陀仏。
しかし、ここで聞き誤ってはならないのが、どんなにお釈迦様を頼っても、いくら師や先達の同行にすがり付いたとても、〔善知識の能(役目)といふは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、人をすすむべきばかりなり〕とお示しのように、善知識のお役目は、「唯除されているこの悪凡夫を救って下されるのは、阿弥陀如来様だけですよ」と、道を示してくれることであり、あくまで救いは阿弥陀様のお仕事である。
「仏法は一人しのぎだ」と言って、すがり付こうとする私の手を握っては払いのけてきた幾人かの師や同行に、恨み言しかいえない私がそこにいた。
しかし、この御法話で、
「あぁ、私はなんと素晴らしい善知識に恵まれていたことか」と改めて思い知らされたと共に、それでもなを「孤独は怖い」と泣きながら善知識にすがり付こうしている私がいる。
蓮如様が、〔宿善開発して善知識にあわずば、往生はかなうべからざるなり。 しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、大きなる誤りなりと心得べきものなり〕とお示し下さっている通り、私が頼るべきは、私を救って下さる力をおもちの阿弥陀様ただお一人である。
にもかかわらず私は、阿弥陀様が感じられないと言っては、手に届く善知識を追っかけ回している。
まこと、浅ましい限りである。

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